Carpenters(カーペンターズ)
アメリカの兄妹ポップス・デュオ。楽器を兄のリチャードが受け持ち、ヴォーカルを妹カレンが担当。ロック全盛の1970年代において独自の音楽スタイルを貫き、大きな成功を収めた。1983年のカレンの死により活動を終えた。
生い立ち
カーペンター兄妹は、アメリカ合衆国コネチカット州のニューヘイブンで生まれた。リチャード・リン・カーペンターは1946年10月15日、妹カレン・アン・カーペンターは1950年3月2日生まれである。リチャードは父親の膨大なコレクションのレコードを聴き、ピアノの練習に熱心だった。一方カレンは親しみやすく外向的でスポーツを好んだが、兄と一緒に音楽を聴くことも多かった。
1963年6月、両親のハロルドとアグネスは家族を連れてカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のダウニーに移り住んだ。リチャードを音楽業界へ近づけることと、カレンと父がニュー・イングランドの厳しい冬を嫌ったための移住であった。同年の秋からリチャードはダウニー高校へ通い、体育の代わりにバンドを選択科目として取ることができた。後のカレンも、これを参考にして選択を体育から音楽に変更した。音楽教師のブルース・ギフォードは、リチャードが「ラプソディ・イン・ブルー」を指示されて演奏するのを聞いて、リチャードのピアニストとしての才能を認めた。翌年度からリチャードはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校へ通い、将来の作曲パートナーとなるジョン・ベティスと出会った。ベティスの協力のもとに、リチャードはやがて「トップ・オブ・ザ・ワールド」、「愛にさよならを」、「オンリー・イエスタデイ」といった名曲を生み出していく。またリチャード・カーペンター・トリオでベースやチューバを演奏することになるウェズリー・ジェイコブズや、1966年にクリスマス・ソングのスタンダード「メリー・クリスマス・ダーリン」を共作するフランク・プーラーらと知り合ったのもこの学校でのことである。
カレンは、1964年にダウニー高校へ入学し、ドラム演奏の才能を見せはじめた[3]。カレンは、運動は好きだが体育の授業は嫌いだったと述べている。カレンは体育から逃れるため、カリフォルニア州立大学学生のリチャードに、恩師の中で(リチャードがやったのと同じように)自分を体育からマーチング・バンドへ移らせてくれる教師の紹介をたのみ、ダウニー高校マーチング・バンドの一員となることを認められた。1963年、リチャードを教えていた教師のブルース・ギフォードはカレンにグロッケンシュピールを担当させたが、カレンはこの楽器を嫌った。あるインタビューでカレンは、「演奏に不便で運びにくく、バンドの演奏よりも常に4分の1音高い音を出すことなどに苛立っていた」と述べている。その後間もなく、友人でありバンド仲間のフランキー・チャベスからカレンはドラムの演奏を勧められ、チャベスのセットを借りてドラムを教わった。「基礎から始めて2人で何時間も練習したのだろう」とリチャードは語っている。1964年に両親からラディックのドラムセットを買って貰ったころには、カレンの腕前はプロ並みに上達しており、リチャードが後年のドキュメンタリー『リメンバー・ザ・カーペンターズ』 ("Close to You: Remembering the Carpenters") で語っているところによれば「エキゾティックな拍子記号の列を叩き出せるほどになっていた」。
スタジオアルバム
■スタジオアルバム
<1969>
オファリング (Offering)
<1970>
遙かなる影 (Close to You)
<1971>
カーペンターズ (Carpenters)
<1972>
ア・ソング・フォー・ユー (A Song for You)
<1973>
ナウ・アンド・ゼン (Now & Then)
<1975>
緑の地平線0ホライゾン (Horizon)
<1976>
見つめあう恋 (A Kind of Hush)
概要
1970年代を中心に、アメリカのトップ40やアダルト・コンテンポラリー・チャートの記録を塗り替え、ソフト・ロックやイージー・リスニング、アダルト・コンテンポラリー・ミュージックといったジャンルにおける主要なヒットメーカーとなった。ビルボード・ホット100チャートで1位となったシングルが3曲、アダルト・コンテンポラリー・シングル・チャートで1位が15曲ある。さらに、トップ10入りは12曲に及ぶ。カーペンターズのアルバムおよびシングルの総売上枚数は1億枚を上回るとされている[3]。
14年間の活動で、11枚のアルバム(うち『遙かなる影』『カーペンターズ』『ア・ソング・フォー・ユー』『ナウ・アンド・ゼン』『緑の地平線0ホライゾン』の5枚がトップ10シングル曲を収録)、31枚のシングル、5本のテレビ・スペシャル番組、テレビ・シリーズ番組を1本制作した。アメリカ本国をはじめ英国、日本、オーストラリア、オランダ、ベルギーなど世界各国でツアーを行った。
オリコンチャートブックの集計では1970年から1989年(いわゆるレコード時代)の日本での海外アーティスト別アルバム売上枚数はビートルズに次いで第2位である。シングル売上枚数は第1位。CD時代に入った後も、1995年発売のベスト盤『青春の輝き0ベスト・オブ・カーペンターズ0』が 300万枚越えるセールスを記録する等、日本においても時代を超越して愛され続けているグループである。
カレンは神経性無食欲症(いわゆる拒食症)の合併症による心停止のために死去した。その結果、摂食障害の危険性の認識が深まったといわれている[4][5]。